饒かな舌

Mother Tongue

『天才』宮城音弥著

天才 (1967年) (岩波新書)

天才 (1967年) (岩波新書)

*凡才の手管

 天才の生き方は、万人受けするとは限らない。歴史上多くの天才が、天才は限られた者にしか与えられない天賦の才能である、と吹聴したそのこころは、天才が必ずしも社会的に幸福な人生を送ったとは限らないことを意味する。

 もちろん、才能を如何なく発揮することができる人生は、天才本人にとっては最高の人生だった、それはどの天才もそうだろう。死ぬ間際に「いい人生だった」と呟く天才は、個人的な人生でみれば、言葉通り、満足した時間を送れたと思っていることだろう。

 本著はしかし、天才の社会的苦労を克明に記載する。天才は世の中に反抗し、若すぎるかっこよさを残した性格のまま、一生を終える。そんな人物は、世の常識に従って生きる紳士にとってみれば、幼稚で、狂っていて、人騒がせで、心配な存在であろう。

 天才の狂気とはさしずめ次のような想念である。「天才を虐め、天才を殺し、天才から奪ったものを工夫して、便利に楽しく暮らす。それが凡人のなすことのすべてだ。」断るがこれは自尊心の昂ぶりというより、あくまで精神的苦痛を直接訴えた表現とみるのが正しい。「疲れた」「ううっ」という誰もが口にするひとことと、さして変わらない。

 付言すれば妄想でもない。ふつうの人は自分の気持ちだけで精一杯である。しかし天才は天才に学んで生きている。天才たちが残した偉大な作品、著述や批評、発明と発見を成したおかげで、いまの文明がある。ゆえに、天才に学んだ天才たちは、「むずかしい」「かったるい」などと学ばないふつうの人たちに、苛立ちを募らせる。

 社会が天才を讃える時期は気ままに決まる。天才の死後、天才がどんな表情を浮かべて日々暮らしていたか考え付くし、認められることなく死んでいった天才がまわりから自己満足と批評されて過ごした苦悶の生活に、悪い気さえ起こさない。苦しみこそ天才を生む、という理屈で納得するからだ。

 天才だって、それを否定しはしない。単に苦しみ、時代の大きな問題と結びつけ、大きな個人的過誤を犯し、にもかかわらず多くの才能と邂逅し、無垢な態度で学びつづけることができたからこそ、どうしようもなかった甘皮が剥がれ、天才は開花したのだ。

 認められたいかどうかは自尊心による。虚栄ばかりで開花した天才は、それだけのものだろう。一発屋か普遍人か、どちらの作品を残せるかは、天才とは関係なく、人間性に依るのだろう。多くの天才のことばを読み込むほど、困難は増し、普遍人に近づく。

 天才に嫉妬して絶望する必要はない。天才はさしずめ脳の現象である。天才の脳は心と身体を保衛するようにできている。安心してほしい。天才は永久に不滅である。さらに彼らはいかなる方法であれ、のちの天才を育てる。あなたもその1人になれるのだから絶望している暇はない。

 そう、私は天才という生き方を万人に受け入れてもらうよう企図している。この手管は、先の件によれば私が少なくとも凡人ではないことを意味している。これが虚栄ばかりではないことも、読みようによっては確かなことになろう。すべてはこの文章に出合った、あなたの手管次第である。