饒かな舌

Mother Tongue

『0円ハウス』坂口恭平著

0円ハウス

0円ハウス

*異郷感

 街を歩いていると、ふだん見慣れていた風景が違うものへ向かうことがある。いつも真正面を見て通勤していた道が、斜に見ながら歩くと「こんな風景をしている街だったんだ」と立ち止まり、思わず両手で写真の枠を切る。

 住宅の庭の樹木がか細くよわよわしい幹を通していることに気づくと、メルヘンな建材とガラスでできた家の中で、不思議なティーパーティをしているのかなと想像してしまう。見慣れた街の風景を映す網膜が、世相の垢に塗れていたことを知る。

 本著の著者は、建築学科の卒業を控えたころ、河川敷で自適に暮らすホームレスに出会う。拾った家電製品を自ら修理して賄い、自転車で集めた空き缶の収入で食料費にも困りはしない。周りの仲間を集めてときどきわいわい酒盛りを行う。いざ話を聞いてみると、豊富な知識の持ち主で、都会に生きる誰よりうまく生きる知恵に変換していた。

 その後「レイヤー」の概念に至る。この世に敷かれたインフラの上下に、豊かな自然がより巨きな目で人間社会を見ぬいている。すでにもつ住居を割勘定で住み合い、せっかくもっているなら活かそうと持ち物を住みびらくように、暮らし方が一様ではなくなっている。モノの活かし方や暮らし方に「層」を、見る人は見出している。

 そこで著者はお金がなくても暮らせる生き方を立ち上げるべく、政府を作り、初代首相となった。国民は、できることを融通し合い、各々の持ち物を使って技術を奉仕し、自律的に協力することで生活を成り立たせる。科学もアートも宗教も、ほんらいは生きるために必要な技術なのだった。

 考えてみれば、お金とはより高い質のモノを買うために必要なものだ。小売店や飲食店で日々捨てられる食料や、季節外れやフルモデルチェンジで売れ残った品々は、なんの悪意もなく処分されてきた。お金に執着しない生き方を選ぶとは、そのような低品質のモノでもわりと構わない、ということだ。

 見切り品を買って腹を壊しても、腸を整えればいずれ治る。部品が少しいかれても、使える機能が動けばよい。自宅に取り置いてある部品と交換すれば、曲がりなりにも動作する。昔ながらのデザインでも、時代遅れの本や雑誌でも、読みよう使いようである。

 せっかく作ったものなのだから、食べてもらわないと食料も浮かばれない。せっかく買ったものなのだから、使ってもらわないともったいない。生産と消費の外側に、このような中古品の融通と分解と配合の世界が大規模に広がっている。知識と技術があれば、わずかな収入を覚悟してもいとまのない暮らしを持続できるのだ。

 さいきん近所で、無料でお渡しします、という張り紙とともに、不用品を玄関の前に置く家々が増えている。うれしくて額や鉢などを頂戴したが、捨てるより賢い選択であることはいわずもがな。ごみ集積所の隣に譲りものコーナーを設け、次の日にきれいになくなる地域は、貧富を均らす出会いをもたらす、平和な街区にちがいない。