饒かな舌

Mother Tongue

『堕落論』坂口安吾著

堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)

*ピエロの廃業

 ことばには向き不向きがある。向く言葉と向かない言葉がある。文字列を生産する人は、瞬発的に聞きとり、書き直す能力と周到に調査する技能を備えている。生涯学習を続けるために読書は不可欠だが、事前に読めない人は読めない文字列があってしかるべきではなかろうか。

 時代を代表する精神には、寡作であっても世の中を制御する声を代表し声を発する人物がいる。この言葉の意味を理解しない者は、読書を減らしたほうがいい、と私は主張してみる。多読の末、私の当座の結論は、知識人に突かれ贈られた招待状を持参して大人の世界に参加するとき、招待状を送った人を後悔させる場合もありうることだ。

 本著は戦後文学を支えた、寡作な作家の文学論である。道化について、文章は堕落すると述べながら、どこか謙虚で寡黙な表情を与える文面である。巻頭に息子とキャッチボールをしている写真には、平和な国家を生き始める穏やかな意志を見て取れる。

 贈られた招待状にはこう書かれている。「(愛欲のほかに)禁欲生活の外分も保ちたいなんてのは、随分あさまし過ぎると思われます。むしろ一般の欲に即した生活を土台にして出直す」ことが戦後文化の出発点であると。

 本著を読んで堕落の耽溺に浸った人は、正直に申し上げて2種類はある。愛と欲情と名誉ある地位を進んで獲得する生き方を受け入れた幸福な人々、もうひとつはあらゆる欲を否定するとともに単純で完全な道化へと至った少年的青年である。

 読めるためには読めない時期を過ごす必要があるのか。太宰治が傑作を残して死んだ事実は、美談ではあろうが実行すべきことではない。彼が戦後に生きていたらこうツイートするだろう。「作家が時代を殺す。時代が作家を殺す。」

 読めない文字列にもまた、ある時代に生まれた必然性、たまたまその表現として固着した表現の偶然性、兼業してでも文人生活を続ける意志を持ち合わせた偶有性がある。この第三項の登場で、作家の自殺は食い止められている近頃である。

 本体的自殺と本質的自殺の違いを理解していなかったこと、私はこれを自分に認める。刃物を乱雑に扱う調理法を進んで廃したい。万能にふるまう道化師の正体は謎のままに、いかれた笑いをたびたびなす芸人学者のわらじを履いて、一般社会で生活できる職を生きることを許していただきたい。

 愛と欲と人間的欲望に塗れようとする互いの意志を洞察し、関係を切るのでなく保ちつつ、記号を暴力的に短絡づけずに節操するすべを覚えたい。このためには人間的感覚に鈍感であるほか道はないという自己認識でいる。

 編んだ言葉は自らを縛る。作家は文脈を斫き上げ、時代に祭られ、時代を祀る。この覚悟がない者は、黙って読書すること。読書しても新たなものを刻めない者は、安易な気持ちで自己を文字で飾らないこと。悲劇的な結末を迎えずにすむ者とは、一般概念から脱却する概念を発明した人なのである。

 私はこの仮説を信じてみようと思うまで長い年月を要した。これが正しいかどうかも疑ってきた。これからは、疑っていたのは文字であり、自己を疑うことがなかった可能性があること、同時に自己を疑うことが分からなくなるほど自分を疑問視してきたことも含め、私の特異な世界観は理解されざるを得ないのかと疑問を呈してみる。